2011年6月2日木曜日

名古屋~仙台~福島

6月1日午前7時。

約10時間バスに揺られ仙台に到着した。
さすがに東北。早朝の仙台は肌寒いを通り越して寒い。

休憩の国見SAにて。
地元圏であり、ここで無理やり途中下車したかった。
       

何年振りかに降り立った杜の都は、僕の頭の片隅にあった風景とほとんど変わらずにあった。
本当に大地震がこの街で起きたのかというくらい街は平穏に見え
早朝ということもあって通勤に向かう人々の流れもそう感じさせる。

けれど街中の至るところで見られる『がんばろう東北』のスローガンは、
やはりこの都市が被災したことを如実に語っていた。

午前中は街の様子を見て,午後になったら福島へ向かおうと考えていたが、
台風一過なのにどんよりとした天気や石巻や仙台港へ向かう臨時バスに並ぶ長蛇の列を見て
なんとなく自分がおのぼりさんな気がして早々に急行列車に乗り込んだ。
ボックス席とボタン式の開閉扉がとても懐かしい。

揺られること1時間であっという間に到着。
改札が自動改札機になっていた。

駅前広場では古関裕而氏が僕を迎えてくれた。

僕の大先輩。六甲颪や栄冠は君に輝くなど甲子園に縁が深い気がする。  
仙台もそうだったけれど、ここ福島も本当に県庁所在地かと思うくらいの静けさだった。
お昼時だったが、ランチライムに勤しむサラリーマンの姿も少ない。
朝からほとんどなにも食べていなかったので僕もお昼ご飯にすることにした。
が、駅前と聞いてぱっと浮かんで向かったトンカツ屋『うわさのかつ亭』はなくなってしまっていた。
他に入りたいお店もなかったので、食べたいものを探しながらぶらぶらと歩を進めることにした。

かつての繁華街。パセオ通り。今はシャッター通りになっている。

歩いてみると、多くの場所がなくなっており、時間の流れを感じさせた。
建物自体がなくなってしまっていることも多く、その多くは駐車場に変わっていた。
確かに駐車場にしておけば、休耕地を有効利用できると思うがそれにしても多い…。

気がつくと四号線まで歩いていた。



東北人のマザーロード国道4号線。かつてここを辿って自転車で東京から帰った。
目ぼしい飲食店が見つからず、ここで別な道を使って引き返す。
復路も飲食店は見つからなかったが、
それでも高校生の頃憧れだったセレクトショップが数件健在だったことを確認し少し安心した。

らくだのたまご 通称らくたま 中に卵型の個室がある 
置賜町の道路が拡張し駅前まで見通せるようになっていた 

ビブレはダイユーエイトMAXというホームセンターに変わっていた。
そこのバス停はMAXふくしま

結局、食べたいものが見つからず駅前まで戻ってきてしまった。
駅といえば高校生の頃、足繁く通った立ち食い蕎麦屋の甘じょっぱい味が懐かしいが
ここも無くなって久しい。
最終的にフレッシュネスバーガーへ。何のために歩き回ったんだか…

ランチを食べたら、さすがに疲れがでてきた。
だんだん曇り空が雨模様になってきたので、バスで家まで帰ることにした。
実家の直通のバスがあるのだが、本数は確か一日3本だった。
朝・昼・夕という時間だったので、バス停で時間を確認すると、本数が5本程度に増えていた。
幸いなことに時間もちょうどよい便があったので乗り込み実家への帰路に着くことに。

それにしてもここ福島でも『がんばっぺ福島』のような文字が多く目に付いたが
ただの強がりにみえるような街の静けさだった。
昔はもう少し元気があったような…なんて懐古主義に走っては元も子もないが
もう少し盛り上がって欲しいが、どうなんだろう。

実家は実家で色々と変わったところ、変わらぬところがあったのだがそれについてはまた今度。

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